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月隈公園 |
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日田三丘の一つ、慶長の昔(1601年)豊臣秀吉の家来、日田郡令小川壱岐守が城を築いて丸山城と名づけ、石川総輔の時、永山城と名を改めました。
貞享三年(1686年)からは、日田郡代が丘の南側に永山布政所をおいて九州各地にある幕府や九州各藩の目付としてその威勢を天下にしめした所です。 丘の正面山腹に散在する横穴は、千数百年前の豪族の古墳だと伝えられています。 |
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城内説明看板より |
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豆田町の町並み |
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豆田町は、慶長6年(1601年)から9年にかけて、小川壱岐守光氏が月隈山に丸山城を築いた際、友田村から民家を移して城下町をつくったのに始まる。 初め丸山町と言ったが元和年間町づくりと継続した石川忠総の時、豆田町と改められた。 整然とした屋敷割りと旧街路名は、初めからのものである。 ある時期を除いて、日田が幕府直轄の天領となるのは両小川氏が代官となった寛永16年(1639年)からである。 明和4年(1767年)揖斐十太夫が代官から昇格し西国筋郡代となって以後は、初め代官として着任しても後には郡代に昇格している。 また最初から郡代として着任した者もある。 代官郡代の権威と結びついて大名の御用達や、公金の出納を担当した掛屋になった商人が台頭した。 この掛屋の中で、草野家、手島家、千原家、広瀬家などは、豆田町に居を構えた。 中でも、広瀬淡窓の生家である広瀬家で、初めて掛屋となった久兵衛の土木事業や府内藩の財政改革などの活躍は、広く知られている。 町人の町として繁栄した豆田町も、明和9年(1772年)の大火、明治13年の平野町-八幡町の大火によって、大きな災害を受けた。 それらの災禍を乗り越えて再興された町並が、今日残っている町並の基礎をなしている。 豆田町の町並の特徴は、江戸時代初期の町割が、ほぼ完全に残っている事、江戸時代から現在までの各時代の特徴を持つ家屋が混在していることである。 |
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昭和61年3月 大分県日田市 |
日田代官所 |
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1639年(寛永16年)に大名預けであった日田は、再び幕府の直轄地となり、幕府代官として小川藤左衛門正長・小川九左衛門氏行が派遣された。
同年「永山布政所」が開設され「日田代官所」が成立した。
また1767年(明和4年)には、日田代官から西国筋郡代へと格上げされた。 |
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日田観光協会より |
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アドレス |
日田市丸山2丁目(月隈公園) |
城巡り時間目安:約30分 |
別名 |
丸山城・月隈城 |
築城年 |
1601年 |
築城者 |
小川壱岐守 |
豊臣秀吉の家来 |
城の種類 |
山城 |
遺構 |
石垣・堀・土塁 |
現在の城内 |
横穴が多く残る |
築城前は豪族の古墳であった所に建てたお城である事を発見した代官所が、横穴を掘って探索した。 |
稲荷神社 |
近辺の見所 |
広瀬資料館・天領日田資料館・日本丸館・市山亭懐古館・クンチョウ酒蔵資料館・旧豆田検番所など |
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堀に面した石垣が印象的です
おすすめの季節:春(豆田町のお雛祭り会場がすぐ近くです。) |