Castle in Kyusyu
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杵築城の歴史
大友氏二代親秀の六男親重(ちかしげ)は、建長2年(1250年)、鎌倉幕府から、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、7千石を領し、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城した。
城は、竹ノ尾城と呼ばれたが、いわば木付城の起源といえよう。
ところで、木村氏4代頼直は、時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により、海と断崖に囲まれた、要害堅固の台地(城山)に城を移築することにした。城は応永元年(1394年)9月11日に竣工、木付城と称した。
木付城はまたの名を、台山城・臥牛城ともいうが、台山の名は築城台地にちなみ、臥牛は台山の形状が、牛の寝た姿に似ていることに由来する。
また、木付氏16代鎮直(しげなお)の時代、木付城は島津義弘の部将、新納武蔵寺勢の猛攻をうけたが天正15年(1587年)2月22日、これを撃退した。
以来勝山城といわれるようになった。
それから6年後、宗家大友義統(よしむね)は、朝鮮の役で秀吉の怒りにふれ大友氏は滅亡する。
義統の軍に従った木村氏17代統直は、帰国の途中、門司の浦で、大友除国の悲運をなげき、自刃入水した。
この悲報は、ただちに木付城中の父鎮直に届き、鎮直夫妻はともども城内で自害した
文禄2年(1593年)6月25日。ここに木村氏17代、344年間にわたる、統治の幕は閉じた。
文禄3年(1594年)、豊後国の太閤検地は終わり、翌年、寺社奉行前田玄以が入部し、2年後には杉原長房に代わり、杉原氏は木付城を、地続きの北方平地へ移すことに着手した。
だが、細川忠興・小笠原忠知と、藩主の交代相つぎ、正保2年(1645年)には、能見松平秀親が、3万2千石で城主となり、杉原氏が手がけた、城の平地移転を完了した。
正徳2年(1712年)、3代藩主松平重休のとき、徳川6代将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が杵築と違えられていた。
そこで幕府に伺いをたてたのち、木付を杵築と書くことになった。
松平氏は、初代英親より10代親貴(ちかとう)まで、227年間、杵築(木付)城主として治藩したが、明治4年(1871年)廃藩となり、ここに木付氏以来622年にわたる、杵築城も姿を消した。
昭和45年10月、市内外有史多数の協賛をえて、新杵築城落成のはこびとなり、ここにかつての城跡の地に、ありし昔を偲ぶことになった。
杵築城で戴いた しおり より掲載させて戴きました。
アドレス 杵築市杵築 PA:約20台/城内巡り時間目安:約20分〜1時間 復元天守閣見学時間:9:00-17:00(入場は6:30まで)/休館日:年末年始(12月29日〜1月3日)
別名 木付城・竹ノ尾城
台山城 築城台地にちなむ。
臥牛城 臥牛は台山の形状が、牛の寝た姿に似ていることに由来する。
勝山城 木付氏16代鎮直(しげなお)の時代、木付城は島津義弘の部将、新納武蔵寺勢の猛攻をうけたが天正15年(1587年)2月22日、これを撃退して後、勝山城といわれるようになった。
築城年・築城者 建長2年(1250年) 大友氏2代親秀の六男親重(ちかしげ)が、木付城の起源と言える竹ノ尾城を築城
応永元年(1394年)9月11日に竣工 木村氏4代頼直 時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により、海と断崖に囲まれた、要害堅固の台地(城山)に城を移築することにした。
歴代城主 大友氏(木村氏)・前田玄以・杉原長房・(細川忠興・小笠原忠知)・松平英親(城の移転を完了)
城の種類 平山城
かつての構造 天守台・牡丹堂
番所・濱蔵・千石蔵・船手小屋・鎮守社・時打所・玄関門・坂下門・濱蔵・高札・中ノ御門・埋門・台所門・玄関門・裏門・馬見所
井戸・水門・御殿場・帯曲輪・空堀
遺構 石垣
現在の城内 天守閣 復元(昭和45年10月)
近辺の見所 北台武家屋敷跡・南台武家屋敷跡・若宮八幡宮・八幡奈多宮・住吉浜リゾートパークなど
城の庭には、城山公園石像群(市指定重要文化財)が並んでいます。
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