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史跡 豊後佐伯城址 |
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城山山頂の城址は海抜140m、遠く近く南蛮の山々をめぐらし、番匠川はまがりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。
眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶景、歩いて15分で登れる景勝の地である。
慶長6年(1601年)4月、日田より入封の初代毛利高政は、この地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設にかかった。
三層の天守閣をもつ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南にのばし、北の丸を東北に広げ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。 |
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城は4年後の慶長11年に完成したが、程なく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行わず、寛永14年(1637年)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。
それは山城の不便さを避けてのことである。
そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。
今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆ど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。 |
城内説明板より |
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アドレス |
佐伯市 |
城内巡り時間目安:約40分〜1時間 |
別名 |
鶴屋城・鶴城 |
築城年 |
慶長11年(1606年) |
年表 |
慶長6年(1601年) |
毛利高政 日田より佐伯荘に入封する |
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慶長7年(1602年) |
近江の人 市田祐定に命じて築城を始める |
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慶長11年(1606年) |
築城完工 鶴屋城と呼ぶ |
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元和元年(1615年) |
高政 大阪夏の陣に参加する |
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元和3年(1617年) |
鶴屋城 二の丸より出火 本丸天守閣を焼失する |
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寛永14年(1637年) |
山麓に三の丸を造り、藩政を執る |
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宝永4年(1707年) |
地震 津波のため、486戸 倒壊する |
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享保14年(1729年) |
鶴屋城を修復する 但し天守閣を設けず |
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安永元年(1777年) |
八代藩主高標 藩校「四教堂」をつくる |
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天明元年(1781年) |
高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつくる |
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文化9年(1812年) |
直川ほか七ヶ村の農民が一揆を起こす |
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明治2年(1869年) |
12代藩主 高謙 版籍を奉還する |
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明治4年(1871年) |
廃藩置県 7月佐伯県 のち大分県となる |
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佐伯市教育委員会より |
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築城者 |
毛利高政 |
城の種類 |
山城(二の丸・天守台付近)・平城(三の丸付近) |
遺構 |
三の丸櫓門 |
本丸跡・二の丸跡・北の丸跡・西の丸跡 |
石垣 |
現在の城跡 |
文化会館 |
武家屋敷(坂本家・土屋家・増井家:長屋門) |
安井(市指定史跡)と汲心亭 |
白湯遺跡 |
養賢寺(毛利家の菩提寺) |
毛利家墓所 |
独歩が下宿していた坂本邸・独歩文学碑 |
翠明台 |
近辺の見所 |
薬医門 |
歴史と文学の道(日本の道100選) |
馬場の松並木 |
彦岳・野岡緑道など。 |
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登城ルートは3コース(独歩碑の道・登城の道・翠明の道)ありますが、どの道を通っても、山上の本丸跡地にたどりつけるそうです。
(登城の道が一番ハードなコースらしいのですが・・知らずに登りました。(^^;)) |