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中世の松浦地方は、松浦党と呼ばれた小豪族が割拠しており、彼らは都から下向した源久という貴種を共通の始祖として仰いでいた。
久の曾孫栄は現在の伊万里市二里町大里から有田町に及ぶ有田郷を相続し、天然の要害唐船城を拠点とした。
有田郷の相続時期と唐船城の築城年代ははっきりしないが、12世紀後半にさかのぼる可能性がある。
城跡は自然丘陵をそのまま城としたもので、大きく迂回する有田川を天然の堀としている。
北斜面は急峻で、南斜面には幅広い3本の縦堀が掘られ、狭い帯曲輪も造られている。
山頂は非常に狭く、大規模な建物の構築はできなかったであろう。
栄の4代後に男子の嫡子がなく、今福の松浦宗家が唐船城主を兼ねるようになる。
天正5年(1577年)肥前の平定を目指す龍造寺に攻められるが、和睦し家臣となり、唐船城主は龍造寺氏のものとなる。やがて戦国時代の終わりとともに廃城となる。 |
看板より |
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有田唐船城跡 |
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九州西北部一帯を支配していた松浦党の一族の一人、有田三郎栄が1218年に唐船城を築城した。
以来、有田郷の領主として西有田町、有田町、伊万里市二里町を支配し、十数代(359年間)続いたが、1577年佐賀を中心に勢力を伸ばしてきた龍造寺氏との戦に破れ、その支配下となり1590年に廃城となった。
その後、当地は明治維新(1868年)まで鍋島氏の支配する処となる。 |
唐船城(の歴史)由来 |
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松浦党祖、源太夫邦宮久公の第3子、有田三郎源栄公、建保6年(1218年)唐船山に築城す。
以来有田川流域の開発進み、有田氏も隆盛発展、十数代に及ぶ。
しかるに戦国末期の天正5年(1577年)、九州半城を従え旭日登陽の佐嘉、龍造寺隆信公のため、有田丹後守盛公、その軍門に降る此処に3百有60年に至る有田氏も、その終幕を迎え、龍造寺、鍋島両氏の政権交代により城主有田茂成公佐賀へ還り、寛永年間、遂に廃城となる。
城ゆかりの邑氏、御中の聖地として尊重。神を祭り山田野3所権現社として崇礼、現在に至る。 |
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昭和63年3月 西有田町教育委員会より |
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アドレス |
西松浦郡有田町(旧:西有田町)大山町 |
PAスペース:約2台 |
別名 |
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築城者 |
有田三郎栄 |
築城年 |
健保6年(1218年) |
歴代城主 |
有田氏(十数代:359年間・松浦宗家)・龍造寺隆信・鍋島氏 |
城の種類 |
平山城 |
遺構 |
長石壁・石段 |
本丸跡・二の丸跡・大手門跡・二の門跡・空堀跡・円満寺(武器庫)跡・三所権現跡・武者溜跡・馬寄場跡 |
近辺の見所 |
チャイナ・オン・ザ・パーク |
ギャラリー忠次館・瓷器蔵・絵付け体験など |
竜門峡・棚田など
春 |
竜門峡の桜 |
春 |
桜ヶ丘公園の桜・ツツジ |
初夏 |
チャイナ・オン・ザ・パークのラベンダー園 |
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比較的小さな石を配した石垣や階段が多く、構成も野面積みのようですが、築城から約800年後の今でも、維持されている事に驚きました。
お勧めの季節:春(近辺の竜門峡などに立ち寄られるには良い季節です。) |